「勝ち」の考察 ~ISのインフラ整備を本当に、感謝できるだろうか?~
年金暮らし。
2ヶ月に1度の収入から生活費を残し、おこずかいで2ヶ月間、毎日打てた。
ほとんど、こずかいは無くなったけど、大過なく生きた。
はい。誰が、「勝ち」でしょう?
打ち手の勝ちです。
そして店も勝ちです。
収支がマイナスでも、打ち手はサービスを受け、店はその対価を受取った。と言う構図。
幸せな光景。
家でじゃまにされ、邪険に扱われるより大切にされている感がある。
まるで、独裁国家の過酷な政策下よりは、まともに過ごせる、って言ってるみたい。
これじゃ、生きてるだけだ。生かされてる。生殺与奪を握られてるじゃないか。
いざとなったら、ISは逃げ出すぞ。
では、それ以外の打ち手はどうだ。状況は様々、条件もいろいろ、ひとくくりには出来ないな。
定収入はあるが、欲しいものも沢山ある。しかし使える金額は決まっている。
で、どうするか・・・・
「勝負」!!
「戦う」!!!
「戦争」だっ!!!
「侵略」ではない、これは解放の為の戦い
うんうん、でもこれ、ほとんど帝国主義ね。
でもね・・・
帝国主義は長く続かんよ!
仕方あるまい。かく言う私も同じだったからだ。
悲しいが「帝国主義」のもと、多くの犠牲を出してきたのである。「王」のために戦っていた。「王」とは、私であり、「お金」でもある。
では、何を求め、何をもって「勝ち」とするか。
年金暮らしでもない、そこそこ虐げられてもいない私が戦う意味はなんなのだ。
それは
「証明」である
生きている、証、を自分に示すためかもしれない。
「勝ち」とは、自分の正しさの証明、他人が作ったカラシニコフじゃ、それは出来ない。
だから、なにか新兵器を開発したいのだよ。
もっと、気持ちよくなれる武器をだ!
さて、いつまでたっても「実戦」に入らないこの話は、もう少し続くのであった。
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